目次



ポカリスウェットと秋の空
お化けの話
old memories








 この冊子は本好きが集まって作った合同誌です。
 五年前、私達が高校生だったときにに発行した『Noli me tangere』が一作目で、今回は二作目になります。
 前回と同じ、読み切りの短編小説の作品集です。
 三者三様といった感じの小説ですが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。





ポカリスウェットと秋の空


 高校時分のことで、一つ忘れられない思い出がある。実際は中学でのことだったかもしれない。私の通った学校は中学と高校がひと続きになっていて、級友の顔ぶれこそ中学から高校に持ち上がる折に増えはしたが、仲良くしていた友人は中高を通してずっと同じ数人だったからだ。その友人の一人との間にあった一つのことをずっと腹の内に抱えている。とは言え彼は何も知らぬことで、私一人が体験し、私一人が恥入ったにすぎないのだが。
 その時というのは丁度私が携帯電話を使ってあちこちのアングラサイトを覗いて回っていたころで、パケットの定額制がもう一般化しようとする時だったから、やはり高校のことだったのだろう。怪しげなサイトを見て回ることで、わたしは思春期特有のアウトローな世界に対する憧れの心を満たしていた。ドラッグの名前や流通の仕方を知ったのもその頃であったし、戸籍の売買からセックスの過激な体位の知識を得たのもその頃だ。私はそうやって得た知識をどこかで試してみたくてならなかった。その心理は理解いただけると思う。幼い後ろめたさを抱えながら好奇心に負けて下着の中に手を潜り込ませたそれとさほど変わるものではない。
 数か月の間、私には毎朝欠かすことのない日課というやつがあった。それは初夏の鮮やかなあお色とともに始まって秋鮮やかな紅葉を目前に終わった、私の悪事を働きたいという若い思いの発露であった。自転車に乗って向かう学舎への途中でどこかを迂回して自動販売機に立ち寄る。そこで一本飲み物を買って釣銭を取るついでに、その口に固めのスポンジを突っ込んで翌朝まで放っておくのだ。それから前の朝にスポンジを突っ込んだ別の自販機まで足を延ばし、たまっている小銭とスポンジを引っ張り出して懐に突っ込む。背伸びをする心と懐を満たすちょっとした小遣い稼ぎであった。
 梅雨で一週間ほど雨が続いた時と、夏休みでそもそも登校しなかったひと月ほどを除いては、私は毎日その行動を繰り返した。通学に徒歩でなく自転車を利用するほどの距離があったのだが、毎朝のその習慣のおかげで秋を待たずに私は学校までの地理にとても詳しくなっていた。どこの駐車場の裏に何台自動販売機が置かれていたかまで今でもよく覚えている。
 私は自転車での通学をそれなりに気に入っていた。朝一番の澄んだ空気を切って冷たい風を一身に浴びるのは頗る気持ちがよかったし、赤い夕陽を眺めてぼんやりとペダルを漕ぐのも好きだった。しかし、一年の内で梅雨の時期だけは自転車が嫌になった。身体を野暮ったい雨合羽に、鞄をゴミ用のビニール袋にくるんで通りすがる車の撥ね上げる泥水をこれでもかと浴びながらペダルを漕がねばならないのだから、小遣い稼ぎの手が止んでしまったというのが解っていただけると思う。それにも増して憎らしかったのが台風だが、こちらはまた少し違っていた。
 自販機への悪戯は、台風一過のすっきりとした光景と鮮やかに結びついている。雨と風がすっかり塵を吹き飛ばした青空の下、散らかった段ボールや電柱とアスファルトにぴったりと張り付いた濃い緑の葉が作る独特の朝を自販機に向かって自転車を走らせた。奇妙で現実味のない記憶である。背徳の象徴であった自販機までもがみずみずしく輝いて見えた。人の声一つしないのにやけに物音の響くその特別な朝にからんからんと小銭がすべり落ちる音を聞くのは私にとって一つの異質な体験であった。
 その台風の訪れがなくなり、五月晴れが続くようになったころ、クラス会ではちょうど体育祭の話が出た。出場競技の決定とその練習時間についての簡単な説明があった。競技決めは各々希望の競技に手を上げて早い者勝ちのじゃんけんをした。私は最初から体育祭自体を抜けて裏で漫画本でも読んでいようというつもりで参加人数の多い綱引きに手をあげ、幸運にも一回のじゃんけんであっさりと綱引きに収まった。同じように綱引きに手を上げていた件の彼は最終的にハードル競争という花形を押し付けられていた。
 彼はさして多くない私の級友の中でも一番長い時間を私と共有した友人であった。理由のひとつに挙げられるのは通学路が重なっていたことだろう。彼の家は私の家と高校のちょうど真ん中の辺りにあって、帰り道は大抵彼の家へ向かう別れ道まで自転車を押して話しながら歩いた。帰り道にそのまま彼の家に上がりこんでテレビゲームをしたこともある。玄関におかれた靴箱の上に水槽がのっていて、その中を二三匹赤い和金が泳いでいた。男の匂いのしない家で、男物の靴も服もその家には彼のものしかなかった。休み時間や帰り道にも彼から父親の話が出たことがなかったから、死に別れたにせよそうでないによ彼の家に父親はいなかったのだろう。私から深く聞くこともなかった。
 そういう事情からだろうと思う。お世辞には裕福といえない家庭に生活する彼は、ひとつ向こうの駅で本屋のアルバイトをしていた。地元ではなく離れた場所を選んでいたのは学校でアルバイトが禁止されていたからだ。アルバイトをしているといっても成績がそう悪いわけでもなく、付き合いが悪いわけでもなかった。試験明けにはカラオケにもいったし、ゲームもやる。ゲームセンターだけはさほど好きではないようで何度か断っていたが、私と時々覗いては可愛らしい景品のクレーンゲームばかりやっていたのを覚えている。年のそう離れていない妹とはそれなりに仲がよかったらしく、バイト代から物を見繕っていたこともあった。
 彼との下校は楽しかった。くだらないことを話したり、駄菓子屋で買い食いをしてみたり、時々別れ難くて家の前まで送ってしまったこともあった。授業で体育のあった日は帰り道にスポーツドリンクを買って飲むのがお決まりになっていて、私はよく自販機でポカリスウェットを買った。別の授業が振り替えられて体育になることが多かった体育祭前には特に頻繁に自販機に立ち寄った。
 体育祭を数日後に控えた予行演習の日、丸一日割かれた入場行進の練習と各競技のスタートの確認を終えて、私達は普段のように家路に着いた。秋とは言えいい陽気の日で、すっかり汗をかいた私は途中の自販機で何か飲むものを買ってもかまわないかと彼に聞いた。朝買ったペットボトルはとうに空になっていた。
「お前もなんか飲む?」
 私は自販機の隣に押していた自転車を止めて、制定の革鞄から引っ張り出した財布を持ったまま彼に尋ねた。
「いや、俺はいいや」
 体育のあった日のお決まりで、私はそのときもポカリスウェットのボタンを押した。汗でべたつく手のひらにひんやりと心地いい缶の感触を楽しみながら鞄に財布を突っ込んでいた時、そういえばと彼が思い出したように私に言った。
「この間この辺の自販機でお茶買ったらさ、つり銭出てこなかったの。故障かいたずらか知らないけどさ、お前も気をつけろよ」
 背筋から頭にかっと駆け上ってくるものがあった。
「マジで?」
 震える声を抑えながらそう聞き返すと彼は頷いた。
「たいした金じゃないけどさ、出てこないとやっぱいらいらするし。札は入れないほうがいいと思う」
「確かにムカつきそう」
 三日ほど前のことだと彼は言った。それを聞いて間違いない、と私は腹のあたりがきゅうと縮こまるのを覚え、プルタブを持ちあげて青い缶を口へ運ぼうとしていた手はそこで止まってしまった。
「ちょっと持ってて。飲んでもいいから」
 私は自転車のスタンドを上げるのを言い訳に持っていた缶を彼に押し付けた。後ろめたさですっかり息が詰まって、それをごまかそうと妙に饒舌になっていた私は、今から思い返してみると様子がおかしいと指摘されなかったのが不思議なくらいだった。自分の仕業とばれはしないだろうかとは全く考えなかった。後ろめたさだけが頭の中を埋め尽くしていた。
「先に少し飲んどいてよ」
 暫く自転車を押して思い出しましたという素振りで缶を受け取ってからも、また何かに理由をつけて私は缶を彼に押し付け、その度に少し飲みなよと繰り返した。
「あんまりポカリな気分じゃなかったんだわ」
 いい加減言い訳もなくなってそんな風に押しつけると、彼が別の飲み物を買うかと尋ねた。
「いいや。実はあんまりのども渇いてなかったし」
 私は更に苦しい言い訳を続けるしかなかった。頷けば彼が財布を取り出すことが解っていたからだ。少し歩いては受け取ってまた渡してを繰り返した。飲む素振りをして見せながら私はその缶に口をつけなかった。私はそれを彼に飲ませなければならなかった。彼の『お前も気をつけろよ』という一言を聞いた途端に、私に突然、それまでなかった悪事を働いていたのだという実感が降って湧いたのであった。淡い憧れはすっかり後味の悪さに取って代わっていた。
 不思議なことであった。それ以前にもクラスの中に自分の悪戯した自販機に釣銭を持っていかれた生徒がいたことも私は知っていた。普段から憐れぶって「家庭の事情」や「金欠」を吹聴しているそいつが友人達と教室の後ろでぎゃあぎゃあ騒いでいるのを耳にして、『最悪だよマジで泣くわ』という声を聞いた時にはむしろざまあみろと痛快ささえ感じたにも関わらず、彼の懐に手をつけてしまったと思うと居心地の悪さばかりが胸に募ったのだ。
 それでチャラになるとは思っていなかったが、そのひと缶をどうあっても彼に飲ませ切らねばならないのだと私は頑なに思った。缶を渡して飲むように勧めるたびに彼は困ったような居心地の悪そうな顔をした。普段はそんな顔をするような人ではなかったから、今思えば彼は私が口を付けていないことに気が付いていたのかもしれない。
 別れ際の彼の様子が頭の中にこびりついている。赤く染まり始めた空の下で、缶を握った左手を少し持ち上げて『ありがとう』と笑った彼の眉は少し下がり気味で、やはりどこか困った様子だった。私が無理やり押し付けた青いポカリの缶だった。水滴はすっかり乾いていた。
 私は結局一口も飲まなかった。
 彼と別れた後の帰路をきいきい鳴く自転車を押したまま歩いた。どんどん赤くなっていく夕焼けを見ながら私の頭には妹にあれを買ってやろうと思ってるんだとはにかんだ彼の顔や、本屋のバイトって意外と腰に来るんだ、彼女できてもセックスできねーよと笑った彼の声がぐるぐると回っていた。笑うように鴉がカアと鳴いたのに石を投げつけてやろうかと思った。
 家に帰りついた私は部屋にあったスポンジを全て捨てて、携帯のブックマークに保存してあったアングラサイトのアドレスもすべて消去した。その日の朝いつもと同じように自販機に仕掛けたスポンジは次の日にもその次の日にも取りに行くことができなかった。卒業するその日まで私はその自販機の前を通ることを避け続け、後日何かの拍子にその前を通った時に恐る恐る確かめると、当たり前のことだが普通に釣銭は戻ってきた。それでようやく胸につかえていたものが一つ落ちたような気がした。
 今朝、車で当時の高校の前を通りかかると、窓の向こうからグラウンドに響くせわしない天国と地獄と、子供たちのにぎやかな騒ぎ声が耳に届いた。車を脇に止めて覗いてみると、その頃の自分と同じくらいの年恰好の少年が青いスポーツ飲料のペットボトルを握りしめて声を張り上げていた。車を出して、三つ目の角を左に折れた先の自販機で同じ銘柄のスポーツ飲料を買った。昔自転車を止めたその場所に車を止め、忘れもしないその自販機に千円札を入れた私は、ふと思いついてそのまま釣銭を残してきた。罪悪感も償いの気持ちもなく、ただ懐かしさだけが胸を占めた。台風の過ぎ去った翌日の昼間のような、ぽっかりとした気持であった。





お化けの話


 本当はお化けなんていないんだよ、僕がお化けの夢を見た時にママはいつもそう言って宥めてくれた。お化けは人間が考えたものであって、お話の中にはいっぱい出てくるけど実際にはいないの。お化けを怖がってばかりいると、学校でお友達に笑われちゃうよ。
 昔からそうやって教えこまれてきたおかげで、僕はお化けを信じない子供になった。遊園地のお化け屋敷も、学校の友達とやる肝試しも、出てくるお化けは作り物だと分かっていたので、全く怖いと思うことはなかった。夢や本の中にしかいないお化けなんて怖いはずがない。僕は自分が正しくて強い子供であることを誇りに思っていた。肝試しでお墓の中を歩いても全然怖がらない僕を見て、友達が感心するのが内心嬉しかった。そういう時はつい調子に乗ってしまって、その友達をもっと脅かせてやろうとした。
 でもどうやらお化けは現実にもいるらしい。それを知ったのはつい最近のことだ。人に聞いて知ったのではない。僕自身が実際に遭遇してしまったのだ。
 はじめてあいつを見た時、あいつは机の下にいた。姿は見えないのに、僕はそいつと目があった気がした。机の下の薄っすらとした陰に潜んで、そいつは笑った。僕は慌てて目を逸らしたんだけど、そいつの姿が見えないなら見えないで、襲い掛かってくるかもしれないと不安になった。そっと机の下に目をやると、そいつは闇の中で行儀の良い犬のように大人しく座っていた。襲い掛かってくる様子が無いので僕はほっとしたんだけど、そいつと二人きりで部屋の中にいることが怖くて仕方なかった。
 そもそもあいつは何処から入り込んできたんだろう。玄関の鍵はいつもママが寝る前にチェックしているし、窓も僕が寝る前にちゃんと閉めたはずだ。もしかすると今日入ってきたんじゃなくて、もっと前からそいつは僕の部屋に隠れていたのかもしれない。よく今までこんなものがいる部屋で安心して眠れていたものだ。僕はそう思い、明日からもこんなやつのいる部屋で寝るのは嫌だったので、勇気をだしてそいつを追い払う決心をした。
 でも僕の手は動かなかった。寝ぼけていたからかもしれない。金縛りって、脳は目覚めているのに身体が眠っているから起こるんだって聞いたことがある。まるで自分の手ではないかのように、僕の手は思い通りにはならず、僕は困り果てた。自分の身体に裏切られたら、一体僕は何を信じればいいんだろうか。手は僕の一部であるはずなのに、この時は指一本動かすことさえ難しかった。
 それ以来、お化けは僕の身の回りの至るところに現われるようになった。眠りに着く前の机の下、一人で居残りしている時の教室の隅っこ、帰り道の僕の背後。
 ふとした瞬間にお化けは姿を見せて、僕の胃をキリキリ痛ませた。今もお化けが机の下にいやしないか、不安で仕方がないくらいだ。また今夜も眠れずに、蒸し暑いなか身体にタオルケットを巻きつけて震えるはめになるんだろうか。

 二十日ぶりに目覚まし時計のアラーム音が鳴り響いた。カーテンから差し込む太陽の光がまぶしい。そうだ、今日は登校日だった、僕は慌てて布団から身を起こした。
 母親に急かされる前に身支度を済まし、今日提出する夏休みの課題がちゃんと鞄に入っているか確認してから家を出た。少ししか眠れなかったから、朝の光が目に突き刺さるように痛い。太陽に毒づきながら前かがみ気味に歩いていると、誰かに背を叩かれた。いつも一緒に登校している学校の友達だった。
「おはよう。終業式振りだね。宿題やった?」
「ドリルとかは終わったよ、今日提出だしね。でも自由研究は手もつけてない。自由研究って、まず何から手をつけたらいいのか分からないし」
「俺もそんな感じ。毎年夏休みの最後の方になってから焦りだすんだよね」
 自由研究が苦手な子供は少なくないと思う。例に漏れず僕も自由研究が苦手だ。ドリルのようにやることがはっきりしているものは、夏休みのはじめに張り切って終わらせてしまうんだけど、自由研究はいつもお盆を過ぎてから嫌々やり始める。
 眠くて頭が回らないのに、友達に会うと舌が思ってもいないことまで喋り散らす。まるで二人で独り言を言い合ってるみたいだ、僕はそう思いながらため息混じりにつぶやいた。
「眠いし、家で寝てたいな。何で僕達行きたくもないのに学校に向かってるんだろう」
 友達はあくびをしながら、やる気なさそうに答えた。
「さあね。足が勝手に動いてるんじゃない?」
 その言葉はさっきまでの会話と同じく特に意味のない内容なんだろうけど、僕は妙に納得してしまった。
 学校について、僕はすぐに机に突っ伏して眠った。しばらくするとチャイムが鳴って先生が来たので、僕は顔をあげて先生が話すことに耳を傾けた。
「みなさん、絵や自由研究の宿題は進んでますか。何をしたらいいのか悩む人もいると思いますが、まずはテーマを決めましょう。みなさんが日頃気になっていること、興味を持っていることを思い出してみて下さい。きっと良い題材が見つかりますから」
 先生は他にも夏休み中の生活態度だとか夏休み明けのテストの話について話していたけど、僕はあまり聞いていなかった。僕が興味を持っているものって何だろう。僕は先生の言葉を頭の中で反芻した。ゲームは好きだけど、ゲームを自由研究の題材にできるわけないし。
 しばらく僕は自分の関心があることについて悩んでいたけど、やっぱり思い当たるものなんてなかった。

 登校日なので授業はなく、ホームルームが終わると午前中に解放された。家に帰って昼ごはんを食べてから、僕は自由研究に取り掛かることにした。とりあえず学習机にレポート用紙を広げてみたものの、そこからどうしたらいいのか分からなくなった。
 テーマを決める足掛かりを作るために、僕は去年のことを思い返してみた。確か去年、クラスメートがアサガオの自由研究で先生に褒められていた。毎日花がいくつ咲いたとか、ツルが何センチ伸びたとか記録していたらしい。写真を貼ったり、難しいそうなグラフを書いたりしていて、露骨に親が協力してる感じだったけど。
 そういえば、昔は夏休みといえばいつも虫取りをして遊んでいた。あの頃はまだゲーム機も買ってもらってなかったし、毎日遊んでいても母親は嫌な顔をしなかった。友達と一緒に近所の公園でセミとかバッタを毎日追いまわしていた。まだ夏休みは半分しか終わってないんだし、昆虫の標本を作ってみてもいいかもしれない。内容が図鑑の丸写しみたいなものでも、標本をつけて出せば形になるし、昆虫採集なんかで宿題が終わらせられるのは小学生のうちだけだろう。我ながら子供のくせにせこい考え方だと呆れたが、僕の周りにいる子供で、こういう計算をしない無邪気な奴なんていない。多かれ少なかれ、みんな上手く生きていくための技を周りに叩き込まれて学んでいくのだ。
 眠くて仕方なかったが、僕は昆虫採集に出かけることにした。数年前に通いつめた公園なら色んな樹が植えられていて池もあるから、標本として見栄えのする数は集められるだろう。早く宿題を終わらせて、安心して寝ていたい。僕はそう思いながら、兵隊のように規則正しく足を動かして歩いた。午後の道路はアスファルトの照り返しが激しくて、公園に着く頃にはすっかり汗だくになっていた。
 久しぶりに訪れた公園は、以前と所々変わっている部分があった。不運なことに、池の周りに柵が作られていて、危険と書かれた立て札が立てられていた。そういえば去年、この池で小さい子が溺れたってママが言ってたな。これじゃアメンボを採ることが出来ない、出鼻を挫かれて僕は悔しくなった。何とか柵の間から虫取り網を使えないかと池の縁を見ると、コンクリートの上でカエルが張り付いて干からびていた。それも一匹だけではなく数え切れないほどのカエルが死んでいた。柵を取り付ける工事のついでに、今まで石組みだった池の縁をコンクリートで補修したらしい。
 熱くなったコンクリートはカエルの足を張り付かせ、逃げられなくしてしまう。補修前の石もコンクリートも、僕から見れば同じ石の塊なんだけど、カエルにとっては生死を分けるほどの違いがあったらしい。それでもやはり触ってみなければ、カエルにはコンクリートの恐ろしさは理解できなくて、結果としてこんなに死体が張り付いている。
 僕は怖くなって、その場から離れようとした。でも僕の足は動かなかった。僕の足までコンクリートに張り付いて取れなくなってしまったのではないか、不安になって僕は自分の足を見た。僕の足はズボンに覆われていて大方見えなかったけれども、ズボンと靴下の間から、灰色の肌が顔をのぞかせた。その時僕は理解した。カエルは自らコンクリートに張り付いているのではなく、コンクリートに侵食されてしまったから離れられなくなったのだと。
 そんな事を考えながらしばらく立っていると、僕の足はいつの間にか機嫌を直していたようで、僕は動く事ができるようになっていた。炎天下でずっと立ち尽くしていたから、僕は日射病になりかけていた。少し気分が悪かったけど、僕は虫取りに励んだ。
 日が暮れるころにはもう目標の三分の二ほど集め終わった。この分だとあと一日来れば虫の数は足りるだろう。宿題を終わらせる目処がたったので、僕は安心した。体調も良くないし早く帰らなきゃ、そう思って僕は帰り道を歩いていたんだけど、何故だか急に帰りたくなくなった。嫌な予感がした、多分お化けのせいだ。振り返るとすぐ後ろにお化けはいて、いつものように楽しそうに笑っていた。何が嬉しいというんだ、僕が普通に生活を楽しもうとしているのに、いつも邪魔ばかりして。
 お化けは僕の一歩後ろにぴったりくっついて、ずっと付きまとっていたようだ。僕が歩くとお化けもついてきて、離れようとしない。走って振り切ろうとしても無駄だった。だから僕はお化けを倒そうと思った。そのためには武器がほしい、自分用のカッターも欲しかったところだし、コンビニにカッターを買いに行こう。夕暮れのなか、僕はコンビニに向かって走った。あまりに必死になって走っているものだから、道を歩いている人がこちらを横目で見ることがあった。
 ここにはたくさんの人がいるけれども、僕が今なぜ走っているのか分かる人なんて一人もいないんだろうな、と思った。お化けが怖くて、その辺にいくらでも転がってる一本数百円のカッターにすがろうとしている。あの人たちはそんな気持ちになったことがないだろうし、そもそもあの人たちは僕のお化けを知らない。あの人たちどころか、お父さんもお母さんも友達も、誰一人として今日の出来事を話しても理解してくれないだろう。みんな僕のお化けを知らないし、僕のすべてを見ているわけではないから、これから知ることさえできない。
ようやくコンビニに着いた。夕方になって空気が冷えていたので、僕の頬は赤くなっているにもかかわらず冷たかった。走っている時の高揚した気分のままカッターを探しはじめた。文具コーナーは一目で見渡せる狭さだったが、何度見てもカッターは見つからなかった。商品棚はすき間なく埋められているから、売り切れというわけではなさそうだ。いつも要らない時には置いてあるくせに、欲しい時に限って置いていないだなんてひどいじゃないか。僕は苛立った。
 でも店に入ったからにはこのまま手ぶらで出て行くのは気まずい。仕方なく僕は何か買う物を探し始めた。ペットポトルのジュースを持ってレジに並ぶ。店員が僕に声をかけた瞬間、僕の胸はわなないた。身体の中で何かが膨張して、僕の身体は水風船のようにぱちんと弾けてしまうんじゃないかと思った。店員の顔を見るとおかしくもないのに吹き出しそうになるから、僕はうつむいて歯をくいしばっていた。僕が何も言わずに置いた品物を店員が勝手にレジに通すものだから、僕は自分のことを店員なのではないかと錯覚した。僕の頭だけがもぎ取られてこちら側にあって、首のない身体がレジを打っているのを見ている、そんなおぞましい光景を想像した。
 こんな事を考えてしまうのもきっとお化けのせいだ、ぐずぐずしているとお化けに捕まっちゃう。店員からお釣りを受け取ると、早足でコンビニを出た。

 結局カッターは買えなかったから、僕は走って家に帰った。お化けから逃げられたのかどうかよく分からなかったけど、台所からお母さんの作るカレーの匂いがするとおなかが空いてきた。さっきは何で帰りたくないって思ったんだろう。僕はさっきまであんなに焦っていた自分を可笑しく思った。
 夕ご飯を食べながらテレビを見ていると、今日の事が夢だったのではないかと思えてきた。いや今日の事だけでなく、今までお化けに苦しめられたこと全てがきっと嘘だったのだ。ママの言ったとおりだ。お化けなんて気のせいで、本当はいるはずないんだ。
 だから大丈夫だ。ちゃんとママの言うことを聞いて良い子にしていたら、僕はいい学校に行けて、楽しい学校生活をおくることができる。今は夢なんてないけど、大きくなったらやりたい事ができて、一流の会社に就職してやりがいのある仕事をするんだ。みんなと同じように勉強をもっと頑張って、友達と仲良くしていたら大丈夫だ。何の心配もない。みんなと同じテレビを見て、何となく楽しかったらこの先も僕は生きていけるんだ。だから大丈夫なんだ。
 ご飯を食べた後、お風呂に入っている間もずっと、僕は頭の中で大丈夫と唱え続け、上機嫌だった。昼間によく動いたので、お風呂からあがると眠気が襲ってきた。それでいつもより早めに布団に入ることにしたんだけれど、横になってみても頭が冴えて眠れなかった。何となく部屋の隅が気になって仕方がない。そこにお化けがいるような気がする。
 お化けなんていないんだから気のせいだろうと思って、僕は部屋の隅から視線を逸らせた。折角今晩はしっかり眠れそうだったんだから、ちゃんと寝なきゃ。そう思って目を閉じたんだけど、顔の上の空間で何か怖いものが渦巻いている気がしてならなかった。目の前が見えないことが急に不安になってきて、僕は目を開けてしまった。視界の端っこに机の下の陰が見えて、戦慄が走る。お化けはいないから大丈夫なんだ、そう自分に言い聞かせつつ、僕はタオルケットを手繰り寄せていた。今日は疲れていたのに、やっぱり部屋の隅が気になって眠れなかった。

 次の日、僕はまた昨日と同じ公園に来た。昆虫採集の続きをするためだ。今日も太陽は燦々と輝いていて、地面から熱気が立ち上っていた。ニュースで今日は猛暑だと言っていたな、僕は寝不足で乾いた目で虫を探した。しかし辺りを見渡しても死んだ虫ばかりだった。踏み潰されたバッタや、ひっくり返ったセミが舗装された通路にまで転がっていて、避けて歩くのに苦労した。死んでいても身体を潰してしまうのは気が引けた。もし今風が吹いて虫の死骸が動いたならば、僕のできそこないの眼には生きているように映るかもしれない。だって生きている僕でさえ、手は自由に動かないし、口は思ってもいないことを喋り散らすし、足は行きたくもない学校に自然に歩むのだから。
 僕はセミを捕るために、樹がいっぱい生えているところに行った。クマゼミやアブラゼミは昨日捕ったから、今日はニイニイゼミを捕まえようと考えていた。図鑑で調べてみると、ニイニイゼミの幼虫は湿った土に住んでるから、土が乾いている公園には少ないらしい。それに見えにくい色をしている上に小さいから、見落としていたのかもしれない。大きいセミばかりより小さいものもある方がいいし、少しマイナーなニイニイゼミを標本に入れるとより標本らしくなるんじゃないかと僕は思った。
 樹の下に入って目を凝らすと、たくさんのセミが枝にとまっていた。ひっそりと隠れているかのようなものもいれば、突然大声で鳴きだしてびっくりさせるものもいた。ニイニイゼミはなかなか見つからず、僕はいろんな樹を見て回った。セミを捕るだけでなく、探すのにも虫取り網は役立った。枝や葉っぱで上の方が見えない時、虫取り網は僕の手の代わりに邪魔な枝を避けてくれた。僕の手も長かったら自分で避けられるんだけどな、と僕は思った。でも虫取り網があれば僕の手はいらないんだから、仕方ない。そういうものは虫取り網だけじゃなくて、僕の周りに色々あるんだけどね。便利なものが増えて身体が延長されればされるほど、僕自身は内面に凝り固まっていく。まるで身体が縮んでいって、このまま死んじゃうんじゃないかって思えるくらい。実際身体は縮まなくって、多分さっきの虫の死骸のように転がってるだけだろうけど。
 何本も樹を見て回るうちに、僕はとうとうニイニイゼミらしきセミを見つけた。図鑑で見たのと同じ、小さくて泥みたいな色の羽。他のセミが大音量で鳴いているなかで耳を澄ませてみると、ジーと弱々しい声で鳴いていた。僕は息を潜め、そっとセミに近づいた。セミは僕に気が付いていないのか、大人しく樹にとまったままだった。隙を見て、僕は一気に網を下ろした。だけどその瞬間、セミは素早く網と幹の間をすり抜け、僕の頭上を飛んでいった。
 セミを取り逃がしたので、僕はがっかりした。またニイニイゼミを探さなきゃいけない、だんだん面倒な気分になってきた。ずれた帽子をかぶりなおそうと帽子に手を伸ばすと、何故か帽子がちょっとだけ濡れていた。最初は何だか分からなかったけど、僕はじきにその正体に感づいた。セミのおしっこだ。僕はあんな小さくて泥みたいなセミにおしっこをひっかけられたんだ、僕は情けない気持ちになった。せいぜい帽子にかけられただけなのに、セミに馬鹿にされたように思えた。網に付いただけでも多分同じように思っただろう。
 帽子を取ったまま俯いていると、いつの間にか樹の根元にお化けがいた。お化けはいつものように笑っていた。僕はお化けなんか見たくもなかった。怖いし、本当はいないってママが言ってたんだから。だから僕は虫取り網も帽子も放り出して、泣きながら家に逃げ帰った。





old memories
   

 そもそも、どうして新潟なんかに行こうと思ったのだろう、と結衣菜は考える。
「本日運転されるのは、お客様お一人だけですか」
 レンタカー店の店員に聞かれて、結衣菜の思考は中断する。
「ええ、そうです」
 免許証の確認をさせて下さいと店員が言うので結衣菜が渡すと、店員はそれを持って奥に引っ込んだ。友達と旅行のためにレンタカーを借りることはあったが、一人で借りるのは初めてだ。こういう手続きは友達がいる時はいつもやってもらっていたので、初めて行った。正直面倒だな、と結衣菜は感じる。
 今日は日曜日。大型連休直前の最後の休日。同僚達は、今頃仕事をしている。
 普段は、日曜に仕事はない。ただ、今日は結衣菜が事務スタッフをしているNGOのイベントがあり、みんな特別出勤させられているのだ。もちろん、結衣菜にも来てほしいと言われた。今そのNGOに所属している事務スタッフでは結衣菜が一番長く所属しているので、いろいろと他のメンバーを指導してほしかったようだ。
 でも、断った。新潟に行くためだ。

 店員が戻ってきて、免許証を返してくれた。そして、車体の傷を確認するために店員とともに外に出る。車を一周して、二、三か所傷を指摘した。
これで車を借りる手続きは全て終わりで、書類を受けっとった結衣菜は運転席に乗り込んだ。助手席に荷物と地図をぽんっと放り投げる。結衣菜は運転の感触を確かめるように、ゆっくりと車をスタートさせた。
向かおうとしている所は、新潟県十日町市まつだい町。越後湯沢の奥に位置する町だ。
練馬インタから新潟県の六日町インタまで高速道路に乗る予定だ。渋滞などなければ、二時間三十分くらいで着くだろう。
今は、朝の九時過ぎ。昼までには目的地に着ける計算になる。
レンタカーを夜の八時までに返却しなければならないから、向こうには五時間くらい滞在できることになる。それだけいれれば十分だ。


結衣菜は、大学生の頃地域活性化を行うボランティアサークルに入っていた。
「ボランティア、興味ありませんかぁ」
入学式の喧騒の中、ビラを持った男がすっと結衣菜の前に出た。
「結構です」
 結衣菜は、男を避けて通ろうとする。このようなサークルの勧誘が、この日は数えきれないくらいあった。
「ボランティアって言っても、堅苦しいこと全然ないから。学生と相手のみなさんが、win-winの関係になることを目指して活動しているサークルなんですよ」
男は引き下がろうとしない。結衣菜の横を歩きながら、説明を続けようとする。
「ボランティアなんて、そういう高尚なこと考えたことないんで」
 結衣菜は結衣菜で、この勧誘を早く諦めさせようと、できる限り無関心であることをアピールする。
「高尚だなんて、そんな難しいこと全然ないって。活動場所は新潟だから、米はおいしいし、冬はきれいな雪景色が見れるし、人はみんな優しいし。気軽なボランティアが売りなんだから」
 男はにこっと笑顔になる。ボランティアに気軽なものなんてないだろう、と結衣菜は思う。こういう甘い言葉で、人を釣るのだ。
「しかも、補助金が出るから、タダで新潟行けるんだよ」

 この時は、結局相手の男の根気に負けてしまい、連絡先を教えることになってしまった。
新歓活動に行く気はなかったのだが、案内メールに添付されていた新潟の棚田の写真があまりにもきれいで、こんなきれいな場所にタダで行けるなら悪くないなと思い、結局行ってしまった。
 他のサークルもいくつか見ていたが、最終的に結衣菜が定着したのはこのサークルだけだった。メンバー数が少なくてなじみやすかったためだと、思われた。
 そのサークルの活動場所となっていたのが、新潟県十日町市まつだい町蒲生地区。
まつだい町は人口三千人くらいの小規模な町で、住民のほとんどは農家だ。コシヒカリの名産地で、豪雪地帯、棚田の景勝地でもある。この点で、男の言っていたことは間違いなかった。
ただ、補助金の出るボランティアということは、それなりに内容がしっかりしているということで、つまり、必ずしも気軽なボランティアとは言えなかった。
 駅の近くはコンビニや病院があり、まだそれなりに活気があるのだが、蒲生地区はそこから車で十分ほど離れた所にある。
全世帯六十戸。住民の平均年齢は六十八歳。集落の存続が危険視されていた。


 赤城高原サービスエリアの表示が見えたので、左への指示器を出す。
 時刻は十時四十分を過ぎた所だ。悪いペースではない。
 トイレに寄ってから、土産物屋をぶらぶらする。
 サークルに入るまではボランティアに興味がなかったのは本当だ。今も興味があるのかと聞かれると、そうだとは答えられない。自分の中での「ボランティア」というものへの位置づけが決まっていない。しかし、卒業後はNGOに就職したのだから、少なくとも嫌いというわけではないのだろう。
 入学式の日に声をかけられなければ、あのサークルに入らなければ、今の職には就いていない。人生とは因果なものだな、なんて思う。
 入学式に声をかけてきた男は天野啓一と言って、2年生ながらにサークルの代表を務めていた。カッコつけた言い方をすれば、彼との出会いは一種運命的だったのだ。
 運命的と言うなら、結衣菜にはもう一つそういう出会いがある。


 集落全体の意識調査を行ったことがある。結衣菜が大学一年生の秋の時だ。
 今までは地区の役員十名ほどからしか意見を聞いてこなかったから、全戸調査を行うことは画期的なことだった。
 地区を複数のブロックに分けて、それぞれに担当を振り分け、一人で調査に周る。
「ごめんくださーい」
 戸口の前で結衣菜は大きな声を出す。返事はない。
 戸が遮断されていて声が届きにくいのと、お年寄りであるからどうしても耳が遠いため、外から呼びかけたのではなかなか返事はもらえない。インターホンもない。
 しかし、結衣菜もサークルに入って六カ月経った。この地域にも十回近く来た。勝手は心得ている。
 結衣菜は戸を開ける。近所はみな知り合いであることから、この地域の人は鍵をかけない。家にいる時はもちろん、外出する時もである。みんな誰かの家を訪ねるときは、こうして戸を開けて実際に家に二、三歩入ってみるのだ。
 戸を開けると、玄関、続いて二つ部屋が続いていた。奥の部屋に、人が玄関と反対方向を向いて座っている。
「ごめんくださぁい」
 もう一度結衣菜が声をかけると、その人は振り返った。小柄で痩せた老人だった。
 それが、小山勝との出会いだった。

「香山結衣菜さんっていうのぉ」
 小山老人の喋り方は、語尾をのばす独特のものだった。
「ご出身はぁ」
「岡山です。倉敷市の出身です」
「はぁあ、そうなのぉ。一人暮らし、大変でしょぉ」
「はい。でも、だいぶ慣れました」
 小山老人は、奥さんを二年前に亡くし、以来この家で一人暮らしをしていたらしい。
「でもね、新潟市にいる息子がたまぁに、来てくれるのよぁ」
「息子さんが近くにいらっしゃったら、それは心強いですね」
 結衣菜は、できる限りはっきりした声でしゃべる。そうした方が、この老人には聞こえやすいのではないか、と考えたためだ。
「そう。私もあなたと同じくらいの孫がいるのよぉ。今、大学二年生で、東京の大学に通ってるのぉ」
「あら、そうなんですか」
「男だけどねぇ。下に高校生もいるけど、それも男だからぁ。つまんないよねぇ。」
「そんなことないですよ。男の子の方が、頼もしいじゃないですか」

 その日は、結局小山老人の所に、四時間を費やしてしまった。調査の話に加えて、このような世間話もしたためだった。
「結衣菜さん、良かったらここに住所と名前書いてくれませんか」
 最後に、小山老人は近くにあったノートを結衣菜に差し出してこう言った。普通の大学ノートなのだが、これは小山老人の日記帳で、毎日のことを書き留めているらしい。
 結衣菜はそこに、住所と名前、そして、サービスで電話番号も書いた。
「ありがとうぅ。今日結衣菜さんに会ったことは忘れませんよ」
 

 六日町インタを降りた。
 結衣菜は、標識を頼りにまつだい町へと向かう。
 小山老人は非常に筆まめな人だった。
 二、三箇月に一回は、結衣菜の所に手紙を寄こしてくれた。結衣菜は小山老人へ返信するために手紙を買った。
 ある時、誕生日を聞かれた。返信の手紙で、結衣菜は七月生まれであることを伝えた。
 すると、なんと七月に人形が届いたのだ。
 小さな妖精のような人形だが、ケースに入った立派なものだった。
 これには、さすがに結衣菜も驚いた。
 この人形はいくらしたんだろう。こんなことまでしてもらっては申し訳がない。
 このままもらっていいものか分からず、結衣菜は天野に相談した。
「いいんじゃない、もらっておいて。小山さん、結衣菜のことを孫みたいに思ってるんだよ」
 天野の言葉を聞いて、はっと思い出した。男の孫なんてつまらない、と小山老人は言っていた。きっと、小山老人は女の子の孫がほしかったのだろう。
 それから結衣菜は、前よりも小山老人へたくさん手紙を書いた。その内容もサークルやまつだい町のことだけでなく、授業のことやバイトのことなど日常のことも書くようにした。蒲生地区に訪れた際は、活動の合間に家を訪ねたりもした。小山老人の孫になりきろうとしていたのだ。
 それから三年後、小山老人は亡くなった。

 まつだい駅の近くまで着いた。ここまでくれば、あとの道は覚えている。
 時刻は十一時二十分。この辺りで昼食を取っておかないと、これから先店はない。
 結衣菜は近くのそば屋に入る。
 小山老人が亡くなった時、結衣菜は社会人一年目だった。こうして一人一人死んでいって、この地域から人がいなくなってしまうのだなと感じた。
 実際、蒲生地区は、その五年後に無人地区となった。
 結衣菜が想像したのとは違って、実際は、住民が二十人ばかりになったときに役員会の廃止が決まり、みんな別の地域に移住していってしまったのだった。本当にあっけなかった。
 結衣菜は今、誰もいない場所に一人で行こうとしている。
 蒲生は結衣菜の大学生活の全てだった。あそこに全ての時間とお金を費やした。地域活性化という目的が達成できなかったというのに、一体自分は何をやっていたのだろうか。

 店を出て、結衣菜は蒲生地区に向かう。
 結衣菜が四年生の時、蒲生に桜を植えた。桜を中心にして、人が集まらないかと考えたのだ。地域の人の憩いの場になり、蒲生を出て行った人が帰ってこられる場所を作りたかった。植えるのに重機が必要だったので、地域の人にも手伝ってもらって、やっと一本植えることができた。
 あの桜が見られたら満足だ、と結衣菜は思う。あの桜が、結衣菜の学生生活の集大成だった。
 車はついに蒲生地区に入った。
 家は取り壊されずに残っているが、もうボロボロだ。戸や壁がはがれていたり、コンクリートのブロックが崩れていたりする。
 誰もいない。
 速度を落として、車が入れる道を進んで行く。
 田んぼが荒れていた。休耕田となった田んぼを再生させるには時間とお金がかかる。そこまでの投資をして田んぼを復活させても、農業は全くもうからない。田んぼが荒れたら終りだ、と言われる所以だ。
 本当にこの集落は死んでしまったのだ。
 結衣菜は涙が出そうだった。虚しさだけがこみ上げてくる。自分がここでやってきたことは、何の意味もないことなんだよ、と言われているような気がした。
 結衣菜は桜を植えたぶなが池に向かう。
 結衣菜の在学中は成長が足らず、桜が咲くことはなかった。結衣菜は桜が咲いている所を見たことがない。
 ぶなが池は集落の奥にある。結衣菜は緩やかにカーブした道を行く。
 桜は咲いていないかもしれない。集落がなくなった後は誰も手入れをしていないはずだ。
結衣菜は、なるべく期待しないようにしようと思う。その方がショックが少ない。

 カーブを抜けた。
 池の横に木が立っている。幹は細く、その姿は弱弱しい。
 それよりも、木の下人が座っているのを見て結衣菜は驚いた。
「啓一さん?」
 車の音に気付いたのか、啓一は振り返る。そして、満面の笑顔でこちらに手を振った。
 結衣菜は車を止めて、慌てて降りて行く。
「遅かったね」
 まるで、ここで待ち合わせしていたかのように啓一は言う。
「啓一さん、こんな所で何してるんですか」
「桜を見に来たんだよ」
 言って、啓一はにっこり笑った。
「こんな桜、意味ありません。集落がなくなってしまって、誰もいなくなったんじゃあ必要ないじゃありませんか」
 啓一は目を大きくして、驚いたように結衣菜を見ている。
「地域活性化だなんて言ってサークルでやっていたこと、全く意味がなかったんです。何の役にも立てなかった」
 結衣菜の目から涙がこぼれた。先ほど我慢した涙だ。
「私のしたことなんて、何の意味もなかったんです」
「結衣菜」
 啓一の優しい声が聞こえた。
「意味のないことなんて、何もないよ。集落がなくなる可能性を、俺は感じてた。その上で、あのサークルをやっていた。人が集まって、集落が存続し続けることばかりが地域活性化じゃないと思ったからだよ」
「どういう、意味ですか」
 結衣菜は頬を拭う。涙はもう流れていない。
「ここの人たちが楽しく暮らしていけることこそが活性化じゃないか。この集落で過ごす残り短い時間を、俺はみんなに楽しんでほしかった。そのためにあのサークルを続けていたんだよ。結衣菜がずっと文通していた小山さんも最期はきっと楽しかったはずだよ。小山さんが幸せに死ねたのは、結衣菜のお陰だ」
「私が?」
「そう」
 啓一は頷く。
「それに、みんなそろそろ来るだろうしね」
「みんなって、誰ですか」
「ここにいた地元の人たち。桜を見にね、毎年来てくれるんだ。結衣菜が桜を植えてくれたお陰だ」
「でも、桜は咲いてないんじゃ……」
 結衣菜の言葉を遮って、啓一は桜を指差した。啓一が示す先には、花が一輪だけ咲いていた。
「ね。意味のないことなんかないんだよ」
 啓一はにこっと笑った。つられて、結衣菜も笑う。
初めて会った時と変わらない笑顔だった。
inserted by FC2 system