目次


ある夜の出来事
NOCTURNE (前編)
後記に代えて








 この冊子は本好きが集まって作った合同誌です。
 一作目の『Noli me Tangere』から始まり、今回は三作目になります。メンバーの都合がつかなかったため、今回は二作品の掲載となりました。

 少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。





ある夜の出来事


 狩野恭子は後悔していた。今日は、ちゃんと家に帰れば良かった。
 向かいの机では、沖杉亮平がひたすらパソコンをタイプしている。
 恭子は沖杉の様子を窺う。いつも左にはねている彼の寝ぐせが目に留まり、思わずちょっとにやけてしまう。
 いや、にやけている場合ではない。
 今、恭子と沖杉は一つの部屋に二人っきりなのだ。時刻は午前一時過ぎ。外は真っ暗。誰かが邪魔に入って来るなんてあり得ないシチュエーションなのである。
 いや、そういう話ではない。
 ちょっと冷静になろう。
 ここは大学の研究室だ。そして、二人は締め切り間近の修士論文を書いているところなのである。
 つまり、完全に、間違いなく、オフィシャルなシチュエーションなのである。いわば、残業していたら、たまたま二人だけ残ってしまったようなものだ。
 全然色っぽい話ではない。むしろ普通だ。よくある話だ。
 恭子は頬杖をしながら、大きなため息を付く。
 さっきまで舞い上がっていた自分が馬鹿みたいじゃないか。
 いや、しかし、よく考えてもみたまえよ。
 沖杉と二人っきりなのは事実だ。ここがパソコンと本と机しかない殺風景な研究室であっても、これは紛れもない事実だ。
 しかも夜、誰も邪魔に入ってこないこの状況。
 こんな絶好のシチュエーションはもうないぞ。金輪際、未来永劫、絶っ対にない。
「コーヒー、いる?」
 急に、沖杉が声を発した。
 恭子は思わず身体を振動させたが、二秒で顔を作り沖杉の方を向いた。
「なに、いれてくれんの?」
「まぁ、ついでだからねぇ」
 沖杉は口を斜めにして、立ち上がった。ポットのある教授室は隣の部屋だ。
 バタンとドアの閉まる音がした。
 と、同時に恭子は「くそぉ」と呟きながら、頭を抱える。
 なんだ今の態度は?全然可愛くないじゃないか!
 もうちょっと愛想良く、せめて笑顔で、「ありがとう」とか言えないのか!
 悔しさのあまり、床を思いっきり蹴った。
 しかし、床ではなく、机に膝を当ててしまい、また、「くそぉ」と呟いて足を抱えた。

 そもそも、大河内が悪いのである。
 この講座のもう一人の修士二年生。
 いつもは、三人で徹夜していた。なのに、今日は彼女と待ち合わせとか言って、大河内は帰ってしまったのだ。
 それが三十分ほど前のこと。
 大河内に彼女がいたこと自体にびっくりだが、それ以上にこの時間に待ち合わせをすることにびっくりである。待ち合わせてどうすんだよ。
 大河内のにやにやした顔が脳裏をかすめ、恭子は少しいらっとした。
 本当に帰ってしまおうか、と恭子は思う。こんな調子では、論文は進みそうにない。
 しかし、恭子の自宅は地下鉄を使わないと帰れない場所にある。もう終電は過ぎていた。
 駄目だ。恭子に残された道は、沖杉とこのまま五時間以上二人で過ごすことしかなかった。
 また大きなため息を吐いて、恭子は机に突っ伏した。
「なんかお疲れだねぇ」
 沖杉がカップを二つ抱えて帰ってきた。両手が塞がっているため、足を使って器用にドアを開け閉めする。
「あぁ、ありがと」
 恭子は沖杉からカップを受け取った。「ありがとう」は言えたが、愛想良くも笑顔でもなかった。
 沖杉は自分の机ではなく、ミーティング用の大きな丸テーブルの方に座った。
「なに、休憩?」
「うん。今解析中だからね」
 沖杉はコーヒーを一口飲む。恭子はぼんやりと彼の斜め後ろ姿を見つめている。
「狩野、今日はどうしたんだよ。さっきから、ずっと手止まってるじゃんか」
「え?」びっくりして、恭子は思わず声が裏返った。「ああ。ちょっと考え事、みたいな?」
 沖杉は見ていたのだ、恭子のことを。パソコンに集中しているとばかり思っていたのに。
 この三十分間というもの、恭子は、沖杉を見つめてはにやけ、二人きりという状況に焦り、そして全ての元凶である大河内にいらつくという行為を繰り返していた。あれも見ていたというのか?
 恐ろしい。恐ろしすぎる想像である。

 よし、話題を変えよう。
「やっぱさ、研究とか論文とか向いてないんだよね、あたし」
「へぇ」
 興味のなさそうな沖杉の相槌。沖杉はどちらかというと恭子の方ではなく、パソコンの画面の方を向いている姿勢である。ちゃんと解析が進んでいるのか確認しているのだろう。
「教職目指して正解だったよね、ほんと。ドクタなんて絶対無理だわ」
「ふぅん」
「沖杉は、上進むんでしょ」
「まぁねぇ」
 欠伸を噛み殺して、机の上からフィッシングマガジンと書かれた雑誌を取る沖杉。
「もう、どこの学校に行くのか決まったんだっけ?」
 沖杉の方から質問をしてきた。少なくとも、会話を続ける気はあるようだ。
「決まってるしぃ。岡山の女子高だぞぉ。言ってなかった?」
「いや、聞いた気がする」
 じゃあ、聞くなよ!と、心の中でつっこみ。
「なんで岡山なの?狩野の実家って岡山?」
「違いますぅ。東京ですぅ。就職決まんなくて、そこしかなかったの。悪かったね、岡山で」
「へぇ、そう」
 自分で会話を広げておいて、「へぇ、そう」はないだろ。どういうつもりでしゃべっているんだよ。
 沖杉はパラパラと雑誌を眺めている。
「沖杉は頭良いもんね。研究職向いてると思うわ、絶対。うん、恭子さんが言うんだから間違いない」
「いいかげんだな」
 沖杉は苦笑する。
「そのうち、こういうゼミ持って、そんでもって東大か京大かの教授になるんでしょ。あたしとは違う世界に行っちゃうわけよねぇ」
「いや、東大は現実的に無理だろ」
 そういう話じゃないんだよ!
 もう会えなくなるんだぞ、って話なんだよ!
 恭子は沖杉を睨みつけた。
 結局、沖杉は自分のことなんてどうでもいいのだ。
 そんなこと、本当は分かっていた。沖杉はそんなやつじゃない。
 社会とか人間関係とか、そういう不合理で面倒なものと関わるような人じゃない。
 そう、分かっていたことだ。
 恭子はため息を吐きながら、椅子にもたれた。これまでの自分を吐き出すようなため息。
「今日はもう止めて帰ったら?明日先生に相談すればいいよ」
 沖杉は間違いなく勘違いしている。恭子が修士論文のことで悩んでいると思っているのだ。
 確かに修士論文については悩んでいる。卒業までに終わる気がしない。
 でも、今はそのことを考えていたわけではないのだ。
「俺と狩野の分野が近ければ相談に乗ってやれるんだけどなぁ」
 沖杉が椅子を恭子の方に寄せてきて、パソコンの画面を眺める。
 どうして、こいつはこんなに鈍いんだ?ほんと、馬鹿じゃないのか?
 ついさっき諦めようとした沖杉が、ほんの十センチ先にいる。
 手を伸ばせばすぐに触れられる距離だ。
 しかし、恭子が手を伸ばすことはない。
 両手をぎゅっと握りしめて、恭子は沖杉のつむじの辺りを見つめる。
「だいたいさ、京都と岡山なんて、新幹線で一時間じゃないか。なにをそんなに悲観してるの」
 沖杉が振り向いた。恭子の目の前に沖杉の顔がある。
「は?何言ってんの?」
 沖杉は口を開く。何かしゃべっている。
 でも、恭子には聞こえない。
 視界が暗くなる。
 ちょっと揺られたような感覚。

 遠くで、解析終了を告げるアラームが聞こえた。


 翌日、恭子はいつも通り昼過ぎに研究室にやって来た。
「おはよぉ」
 大河内の呑気な声。いいかげんなやつだが、大河内は講座の中で一番朝が早い。この講座の三大ミステリィの一つである。
「沖杉、もう学校に来てるはずなんやけど、どこにいるか知らん?」
「生協に発表用の模造紙買ってくるって言ってたけど」
 コートをハンガにかけながら、恭子は答える。
「へえぇぇ。それはそれは・・・」
 大河内はくっくっくっと笑い出した。何がそんなにおかしいのか分からない。
 恭子は首をかしげながら椅子に着いた。キーボードをたたいて、パソコンを起動させる。
「そういや狩野はさ、ニュートンとグレゴリーの論争の話、知ってる?」
「三次元で同じ大きさの球がいくつ接触することができるのかってやつでしょ。知ってるよ、それくらい。グレゴリーが十三個って言ったのに対してニュートンが十二個って言ったんでしょ。結局ニュートンが正しかったわけだけど」
「それが違うらしいんやって」
 大河内はにやにやしながら恭子を見る。
「ニュートンとグレゴリーの論争を記した『ケプラー予想』ではニュートンは十二個なんて言ってへんのや。二人とも十三個って主張してたんやないかって話なんよ」
「それ、どういうこと?」
「まぁ、つまりあれやな。ニュートンが間違うはずがない、っていう固定観念から生まれたニュートン神話の一つなんや。どんな天才も所詮は人や。うちらとそう変わらへんっちゅうことやな」
 大河内は一人でうんうんと頷き、また何かを思い出したかのようにくっくっくっと笑い出した。
 恭子は大河内のことを放っておいて、修士論文に取りかかることにした。
 昨日の分を挽回するつもりでやらなければ、本当に提出できなくなってしまう。
 よし、と気合を入れて、恭子はパソコンに向かった。





NOCTURNE (前編)


 暗い森の中を、幼い少年が息を切らせながら走っている。
 少年の頭上では樹々が枯れた葉をたっぷりと蓄え込み、時々耐え切れなくなったかのように数枚の葉を落とす。森の外はあんなに眩しくて暑かったのに、ここはじめじめして薄暗い。落ち葉は湿った土にまみれていて、足が地面を蹴る度、靴がめり込んだ。
 ひんやりとした空気が、少年のほてった頬から、髪からこぼれ落ちる汗の雫から、徐々に熱を奪っていく。もう晩秋だからかな、こんなに空気が冷たい。いや、きっと土の湿気が森の中の空気を冷やしてるんだ。少年は頭の片隅でそんなことをぼんやりと考えながら、更に前へと走っていく。
 冷たさが身に染みていくにつれ、興奮していた少年の心もまた冷静さを取り戻していった。殴られた腹や肩などはまだ重苦しい痛みを残してはいたが、大分和らいできた。少年は走るのを止め、ゆっくりと大きく息をついた。
 この森には物心付く前から遊びに来ていたため、少年にとって唯一落ち着ける場所だった。家には怖い父親がいる。朝ごはんの時にやっていたニュースで、小さな女の子が母親に虐待されて死んだと言っていた。悟られないようにそっとお父さんの方を見てみたが、お父さんの顔は新聞に隠れて見えなかった。台所から聞こえてくる、お母さんの包丁の規則正しい音だけが、早鐘のように響いていた。
 虐待されていた女の子は自分と同じ小学四年生の女の子だった。その子は何年も前から母親に暴力を振るわれていた。普段は見えないお腹などを殴られたり蹴られたりしていたらしい。学校のプールの授業に出たがらないその子を、担任の先生が不審に思って問い詰めたところ、事実が発覚したのだ。結局女の子はお風呂に顔を突っ込まれて死んだらしい。僕もいつかそんな風にお父さんに殴り殺されるのだろうか。殺されるのは嫌だ。しかし力無き少年には父に抵抗する勇気さえ出なかった。
 大きな樫の木に背をもたせるようにして座り込み、額から滴る汗を拭う。少しの間休んで呼吸を落ち着かせると、少年はまた立ち上がった。さっき走ったおかげで昂っていた気持ちが静まったので、今度はゆっくり歩いた。
 落ち葉の踏み心地や湿った木の幹の手触りを確かめながら歩いていくと、前方を遮る木々の間から紅いものが見えてきた。何だろう、そう思って近づいてみると、木の生えていない開けた場所に出た。そこにはもみじの葉がたくさん積もり、山となっていた。
 少年が両手を広げても足りないその山は、周りの木々の枯れた茶色とは対照的に、鮮やかな紅色だった。近くにもみじの木は生えていない。茶色の地面と紅い山の境は、気味が悪くなるほどにはっきりと、もみじで縁取られていた。
 去年作った金魚のお墓にそっくりだ。少年は夜店の金魚すくいですくった金魚を思い出した。ひらひらした尾の付いた、小さな赤い金魚だった。その一匹しか掬えなかったのだが、翌日金魚は死んでしまった。少年は庭のすみっこに穴を掘り、その穴に金魚を埋めて土でこんもりとした山を作った。それから献花の代わりに庭で一番綺麗だったもみじの葉を数枚添えた。赤い金魚だったから、紅いもみじで飾ると金魚も喜ぶかもしれない、そう思ったのだ。
 このもみじの山は誰かのお墓なのかもしれない。過去の記憶と相まって、そのもみじの山は少年に墓を連想させた。少年はその場にしゃがみこんで、上から下へと山を眺めまわした。もみじの葉一枚々々が冷えびえとした、近寄りがたい雰囲気を醸しだしている。手を伸ばしてみたものの、触れてはいけないような気がして、手を引っ込めた。
 それにしても、この大量のもみじは一体どこから現れたのだろうか。再度辺りを見回してみたが、やはりもみじの木なんて一本も見当たらない。誰かが別の場所から運んできたのだろうか。何故だかそれが一番納得できた。ここはお墓であり、お墓にお供えものを持ってくるのは当たり前のことだ。きっと誰かがここに通っていて、毎日もみじの葉を供えているんだ。想像してみると、胸が締められるような優しさを感じた。少年はしばらくその甘い空想をかみしめ、それから痺れを解くようにゆっくりと立ち上がり、紅い墓を後にした。

 家に向かって歩きながら、少年は金魚のことを考えていた。家に帰ることは少年にとって苦痛だったが、家に居ないことが父親にばれてしまったら叱られるので、早く帰らなければならない。そう思って家の前に出る角を曲がったとき、庭のガレージに黒い車が一台留めてあるのが見えた。
 しまった、お父さんだ。全身の汗腺から汗が滲み出た。もう仕事から帰ってきていたんだ。少年は玄関のノブに手を掛け、恐る恐る前に押した。
「慎司か」
 まだ開ききっていないドアの隙間から、重苦しい低い声が聞こえた。ドアを開ける手が恐ろしさで止まりそうになったが、普段どおりに振舞えるように慎重にドアを押した。玄関のドアを挟んで目の前に、父親が腕組みをして立っていた。
「どこで何をしていたんだ」
 外出が見つかったときの、いつもの言葉だ。ここで言うべき返事は決まっている。
「健君のおうちで遊ぶ約束をしてたから。……ごめんなさい」
 健君とは近所の友達の名前だ。父親の印象は悪くない。
「勉強があるだろうが、遊んでいる暇があると思っているのか」
 父親は少年の頭を、拳をそのまま下ろすようにして殴った。この後は部屋でちゃんと勉強するんだぞ、そう言って父親は奥の部屋に引っ込んだ。
 殴られた頭は痛かったが、今日はそれほど怖くなかった。口答えをせずにすぐに謝ると、父親はそれほど機嫌を悪くしない。少年は玄関に腰を下ろして靴を脱ぎ、綺麗に揃えてから、二階の自分の部屋に行くために階段を上った。
 部屋に着いてから、少年は教科書を机の上に広げた。そしてランドセルから筆箱を取り出し、同じく机の上に置いて頬杖をついた。こうしていれば、父親が突然部屋に入ってきた時でも勉強しているように見える。少年は毎日このようにしてから本を読んだり、落書きをしたり、考え事をするのが習慣になっていた。
 今日は学校の図書室で一昨日借りてきた、童話集の続きを読むことにしていた。机の引き出しから童話集を取り出し、栞を挟んでいたページを開いて、昨日の続きから読み始める。悪い継母が主人公の女の子を苛めているところから始まり、最後に継母は罰を受けて死んでしまった。そして女の子は幸せな結婚をして、物語は締めくくられた。少年は最後まで読むと、本を閉じて引き出しの中に戻した。
 少年はまた頬杖をついて、算数の教科書の宿題のページを開いて、鉛筆も持たずにぼんやり眺めていた。意地悪な継母が死ぬお話、昨日読んだ他の話もそういう終わり方をしていた。主人公をいじめる継母はきっと死ななくちゃいけないんだ。
 悪いことをする人は最後に罰が当たることになってるんだ。神様には地上のものが何でも見えていて、悪い子はお仕置きされるんだってお母さんもよく言ってた。それなら僕を叱って殴るお父さんも地獄に落ちちゃうのかな。お父さんが僕に酷いことをしているところを神様がちゃんと見ていてくれるなら、お父さんは神様に罰で地獄に落とされる。そうしたら僕の家は平和になるんじゃないか。僕はもう殴られなくて済むし、お母さんもお父さんの機嫌を損ねないようにびくびくする必要はなくなる。毎日友達と遊んだり堂々と居間でテレビを見たりできるし、こんな風にこそこそと本を読むなんてこともしなくていいんだ。
 少年はそれから目の前に広げた宿題のことも忘れて、ただひたすら父親がいなくなったらどうなるかという想像を膨らませ、悩みが解けた時のような安心した、幸せな気分に浸っていた。

 次の日から、少年は学校を終えるとすぐに例の森に向かうようになった。途中の道でもみじの木を見つけては、その木の中で一番紅いものを選り、また一本見つけてはもっと紅いものは無いか探し、その日最も紅かったもみじを献上することにしていた。
 そのような日々を何回繰り返した頃だったのだろうか、ある日少年が墓に向かうとそこには既に先客がいた。この場所で他人に会うのは初めてだったので、少年は身構えた。彼は少年より幾つか年上に見えた。少年と目が合うと、彼は人好きのしそうな笑顔を僕に向けた。そして少年の目を見つめて言った。
「これは君が?」
 これ、というのは墓のもみじのことだろうか。少年は肩を強張らせつつも、手に持っていた一枚のもみじに目をやった。
「違う、僕が供えたのはほんの一部だけ。僕が最初にここに来た日からあったんだ」
「ふぅん。誰なんだろうね」
 彼はこのもみじの山をどういったものだと思っているんだろう。少年は疑問に思ったけれど、聞かないことにした。自分がこの山のことを墓のようだと思っていることは、他の人からするとばかばかしいことだと自覚していたからだ。
 彼は少年の方に歩み寄り、こう尋ねてきた。
「君、いつもここに来ているの?」
「うん。つい最近通いはじめたんだけどね。君こそ、いつから?」
 少年がそう答えると、彼は自分も同じようなものだと言い、土の上に座りこんだ。
「ここって何だか落ち着くよね」
「そこ、座り込んじゃって大丈夫? ズボン濡れないかな」
「うん、大丈夫だよ。ここ数日雨降ってないから」
 彼がそう言ったので、少年は彼の隣に腰を下ろした。尻の下で、踏んだ落ち葉が乾いた音を立てた。
 二人は色んな事を喋った。はじめは住んでいる場所や学校のことのような他愛も無い挨拶みたいな話をしていた。少年は知らない人と話すのは得意ではなかったが、話せば話すほど、少年はもっと彼に自分の事を知ってもらいたい欲求に駆られた。二人が打ち解けあうのに時間はかからなかった。驚いたことに、彼は少年がもみじの山を墓だと思っていることを見抜いていた。
「君の言葉尻を聞いていて、そうかなって思ったんだ。それに僕自身、このもみじの山が発している空気に触れると粛々とした気持ちにさせられる」
 自分の考えに理解を示されているのを感じ取り、少年は嬉しくなった。そしてずっと胸の内に隠していた秘密を曝け出してみようという気になった。
「僕、お父さんに殺されるかもしれない。それがいつなのか、分からないけれど」
「殺されるだって。どうしてそんな物騒なことになっているんだい」
 彼の驚いた顔を見て、少年は先ほどの自分の発言を取り消したくなった。父から不当に厳しい扱いを受けていることを主張したくて誇張気味に言ってしまったことに、少年は自分でも気がついていた。だが彼にそれを知ってもらいたい欲求を抑えることができず、少年の口からは堰を切るように虚飾された言葉が溢れ出してきた。
「僕はお父さんに殺される。僕はお父さんより力が弱いから、お父さんがいないと生まれてこなかったから。そしてこの墓に埋められるんだ」
 決して本当に命の危険を感じた訳ではない。父親が力加減を間違えるか、余程当たり所でも悪くない限り死ぬことはあり得ないのは、少年も分かってはいた。これらは全て可能性としてあるだけで、あくまで少年の妄想に過ぎない。馬鹿な考えだと自嘲しながらも、喋ってしまわずにはいられなかった。軽蔑されたかもしれない、少年はそう思いながらそっと彼の方を見てみると、彼は下を向いて何か考えている様子だった。声をかけるべきかどうか少年が悩んでいると、彼はおもむろに話し始めた。
「僕たち子供は親に従わなければ生きていけない、それは事実だ。親に限った話ではない、親にもまたその親はいるし、突き詰めていけばそれは神だとも言えるし、自然だとも言える」
 彼は手のひらで地面に触れた。少年はまさか自分の言葉をそんな風に返されるとは思っていなかったので、動揺しつつも彼の次の言葉を待った。
「僕たちは反発しながらも成長し、やがて親から離れる。でもそれで脅威が終わる訳ではないんだ。君はどうすれば君の悩みから逃れられると思っている?」
「お父さんが……いなくなれば」
 日頃抑圧されていた不満や願望が少年の感情を激しく揺らしたのか、少年は我慢しきれずにまくし立てた。
「お父さんがいなくなれば僕は怒られなくてよくなる。いつも僕の将来のためって言って勉強ばかりさせて、僕を自分の部屋に追いやるんだ」
 少年は一息ついて、こう付け足した。
「お母さんだって、そう思っているよ。いつ殴られるかっていつもびくびくしてる。その場にお父さんがいなくったって、僕もお母さんもつい怯えてしまうんだ。もうまるで病気のように……」
 そこまで喋ると少年は脱力して、力の無い目で彼の様子を窺った。彼は悲しそうな顔をして、こう言った。
「そうかい。……僕も昔はそう思っていたよ」
 彼はそう言ったきり、下を向いて黙り込んでしまった。少年は話し過ぎてしまった気まずさから、無理やり話題を切り替えるような形で他の話をした。そうして少し喋った後、帰る時間になったので少年は別れのあいさつを言った。
「またここに来るよ」
「うん、僕も」
 その言葉で、少年は彼が再び会うことを認めてくれたのだと分かった。また会える、そう思うと少年の心は浮き足立った。先ほどの気まずさはまだ尾を引いているが、家族とも、学校の友達とも違う話し相手が出来たことが嬉しかった。少年は彼と話すことによって、自分の持っている苦しみを何か別のものに昇華できる、そう感じていたのだ。

 帰り道、少年はいつも通り父に怒られないように早足で家に向かっていた。彼と話すことによって気分は晴れていたが、父に外出がばれないように帰ることはもはや習慣となっていた。少年はアスファルトを見つめながら足を前に出すことに集中していたが、急に誰かに背後から肩を叩かれた。
「どうしたの、慎司君。ぼーっとしてるよ」
 健君だった。彼とは家が近所で一緒の学校に行っているので、こうやって道で出会うことも多い。
「あ、健君。ちょっと考え事してた」
 少年はとっさに愛想笑いをした。
「別に大したことじゃないんだけど」
 少年は話をしかけて、やめた。今日林で知らない子と会ったことや、その彼に悩みについて話したこと、それを嬉しく感じたこと、そんな事を健君には喋れない。健君は何でも母親に話してしまう癖を持っていて、健君の母親と少年の父親が話したときに全部父に伝わってしまうからだ。
 学校でも先生に何でも話してしまうらしく、他の友達にそういった面が指摘されたことがあった。しかし健君は誰にでも親切なので、たった一つ悪癖がある程度で嫌う人などいなかった。社交的な性格も相まって、クラスではむしろ人気者だと言ってもいい。少年も健君のことは良い人だと思ってはいた。だがもし「クラスで一人だけ健君のことが嫌いな悪い子がいる」と言われれば、それは自分のことだと思ってしまうだろう、少年はそう感じていた。
 そのような理由で、他愛無い会話でも健君と話すときには気を使う必要があった。少年は話を誤魔化そうとして、別のことを言った。
「健君の家は、家族みんな仲が良さそうでいいな」
「え、そうかな。僕の家だって喧嘩ばかりだよ。毎晩テレビのリモコン取り合ったりしてるもん」
 テレビ見てもお父さんから怒られないならいいじゃん、友人の言う喧嘩の内容を聞いて、少年はみじめな気持ちになった。でもそれを言うことは、少年には出来なかった。
「そんなのは喧嘩のうちに入らないよ。むしろ仲が良すぎるくらいだ」
 少年は苛立つ気持ちを抑えて、冗談めかして言った。
「でも慎司君の家だってそんな感じでしょ」
 健君は人の良さそうな笑みを浮かべてそう言った。
「僕の家は、健君の家みたいなのじゃないよ。だって僕は健君みたいに成績もよくないし、良い子でもないし」
「そんなことないよ。慎司君だって頭いいし、良い子だと思う。そんな風に悪く考えるのは良くないよ」
 笑いながらそういう友人に、少年は劣等感を感じていた。いつも健君は型にはまった『良い子』の答えをする。僕の方が出来が悪いから、優越感を感じながら優しくしてくれて、お説教めいた事までしてくれるんだ。少年は心の中で毒づいた。友人の優等生らしい振る舞いが故意なのかどうか、少年には推し量ることしかできなかったが、少なくとも友人に密やかな悪意があるのではないかと少年は常々疑っていた。
 少年はそんな自分の気持ちを隠すように、いつも通りの、もう顔にはりついてしまった愛想笑いを作った。そして友人と同じように優等生らしい答えを返した。
「ありがとう、そんな風に言ってくれるのは健君だけだよ。ごめん、僕そろそろ帰らなきゃ。お父さんに怒られちゃう」
「そうなんだ、引きとめちゃってごめんね。じゃあね」
 そう言って健君は去った。少年はほっとして、また憂鬱な気分で家路を急いだ。

 数日後の夕飯時、いつも通り黙って行儀良くご飯を食べていたら、父が唐突に話を切り出した。
「慎司、お前健君に何か要らないことを吹き込んだだろう」
 きっとこの前会った時のことだ。少年はそう思ったが、告げ口されるようなことは言った覚えが無かった。
「え、何だろう。僕知らないよ。……ごめんなさい」
 健君に話す内容には重々注意を払っているはずなのに、あの日の会話の中で一体どの件が父親の機嫌を損ねてしまったのか、少年には検討がつかなかった。
「おかげで健君のお母さんに嫌味を言われたよ。子供に対して厳しすぎるんじゃないか、だからお宅の慎司君は成績がいいのねって。他にも近所の人にうちが何て言われているか、知っているのか。お前はいつも他人に、うちのことをどんな風に喋っているんだ」
 先日の会話で、そんな風に受け取られていたのか。少年は驚いた。そもそも先日の会話の内容からじゃなくても、そんなことは近所の人にばれてしまっているのは分かっていた。少年は、友達の母親達が自分のことを可哀想な子供だと噂しているのを聞き知っていた。いつも時間を気にしてびくびくしているって言われてたよ、と健君がわざわざ自分に教えてくれたからだ。少年は父親にも母親にも抱きしめられた記憶が全く無いことを、ふと思い出した。
「父さんは慎司のことを思ってやっているのに、どうしてお前はそういう態度を取るんだ」
 少年は母親の方を覗き見た。母はこちらに目を合わせないようにしながら、黙々とご飯を口に運んでいた。もしかするとお母さんにはこの会話が聞こえてないんじゃないか、少年にそう思わせる程母の見ない振りは完璧だった。もともとお母さんには何も期待していないんだから、構わないよ。少年はそう思うことで、母のことを無視することにしていた。
 今回の件について一通り怒鳴り、関係のない昔のことまで掘り返し始めてもなお、父の怒りは収まる気配を見せなかった。少年は叱責を受け続けることに疲れを覚えはじめていた。そのためか、少年はつい愚痴をこぼしてしまった。
「僕も他の家の子と同じように、居間でテレビを見て笑ったりできる家に生まれたかった」
 こんな生意気な口をきいたらどれだけ怒られるかと恐ろしかった。だが故意でない訳ではなかった。もしかすると普段父を畏怖するあまり言えなかった本当の気持ちを聞いて、父が子供の純粋な望みを受け止めてくれるかもしれないという計算があった。だが少年に投げかけられた言葉は期待していたような優しいものではなかった。
「うちはうち、余所の家は余所の家なんだ。口答えするんじゃない」
 食卓がばん、と激しい音を立て、厳しい一喝が飛んできた。少年は竦み上がった。自分の期待を裏切られたことを怒っていたし、悲しんでもいた。だが一番少年の心に衝撃を与えたのは、暴力だった。少年は父親の暴力が怖くて仕方なかった。
「余所の家がどうだろうと、他人に合わせていたらろくな奴にならない。他人に合わせていればいざという時、他人がお前を助けてくれるというのか。親身になって考えてくれるとでも思っているのか」
 二度とそんなつまらないことは言うなと言い置いて、父は自室へ去った。母は黙って父の残していった残飯をごみ箱に捨て、食器を片付けた。
 僕がいくら頑張っても、お父さんと笑って話せる日なんて多分来ないのだろうな、少年は失望した。たとえお父さんが僕のことを思って厳しくしていたとしても、人の顔色を窺う癖のついた、卑屈な子供にしかなれないし、友達ともぎこちなく接することしかできない。それのどこが僕の幸せだと言うんだろう。僕には力が無いから、お父さんが何をやっても抵抗できない。そうしていつかお父さんの暴力に呑み込まれて、殺されてしまうだろう。そう思うと少年は悔しくなった。少年は目尻に浮かんだ涙の粒を母親に見られないように、乱暴な動作で食器を片付け、二階の自分の部屋へと向かった。

               ***

 数ヶ月前、まだ夏真っ盛りだった時のことだ。私はベッドに寝転んで、溶けていくアイスクリームのようにただ部屋の天井だけを見つめていた。時折窓から生暖かい風が入って、額にかかった髪を揺らした。昼間だったので外は暑苦しかったし、喧しかった。外から隔てられた部屋の中で、私は部屋の空気や時間が沈んでいくのをずっと見ていた。まるでレコードの針がすり減っていくかのようだ、私はそう思っていた。部屋の内容物は天井から埃と一緒にゆっくりと舞い下りてきて、私の顔の横を通り過ぎ、足元へと溜まっていった。
 このまま横たわってぼんやりしていれば、いつか餓死するのではないかと思った。机の上には銀紙に包まれたチョコレートが二粒置いてあった。そうだ、チョコレートをしゃぶるくらいなら餓死してしまった方がましだ。祖父が死んだ時、祖父の姉は祖父のように大往生したいと言って、火葬場で祖父の骨をしゃぶっていた。ぬるい風とともにチョコレートの甘い香りが漂うのを一瞬感じた。

 ……白骨死体のそばで餓死するのはどういう気分だろう。そんなことを考えながら、少年は文字を書く手を止めた。少年は備忘ノートを書いている。あれから数回彼に会い、その話の中で備忘ノートの話を聞いて、少年もつけ始めようと思ったのだ。少年は彼に名前を聞いてみた。彼の名は律といった。少年はその名前をノートの一番はじめのページに書き綴った。
 律が言うに、備忘ノートとは日記のように毎晩寝る前につけるといったことをするのではなく、思い付いたことを思い立った時につけるためのものである。この記録は日記とは少し異なる性質を持っているため、備忘ノートと呼ぶことにしていた。そこに書くべきことについても特に決まったルールは無い。日記のようにその日の出来事を書いてもいいし、読んだ本からのメモ書き、すべき事のリストアップでもいい。とにかく、忘れてはいけない事や後で思い出したい事について思いのままに書き連ねていくのだ。
 最初は本当にただのメモ書きだった。明日の持ち物や学校での用事などを書きとめておいたりしていただけだったのだ。しかしページが埋まっていくにつれ、そこに書かれる事は読んだ本のタイトルになり、その内容や感じた事となった。
 今では夢の内容やふと思い浮かんだことを書き留めていることが多い。少年は夜更かしをする子供であった。家族も外の世界も寝静まった夜に、デスクライトのぼんやりとした光だけを点けて備忘ノートをつけていた。窓から入ってくる夜の冷たい風を額に受け、まどろみながらノートに書き込んでいくのが少年の慰めになっていた。
 現実より夢うつつの状態で見たことの方が面白い、近頃少年はそう感じるようになった。夢は感傷的で掴みどころがなく、正気に戻るとすぐに消えてしまうが、少年にとっては現実より象徴的で意味のあるものだったからだ。悩み事の答えをそっと差し出してくれる夢は、自分の言い分を聞いてくれず罰だけを与える父や、見ない振りをする母、大人に媚びて少年を省みてくれない友人より、ずっと少年に近しいものに思えたのだ。

 それからしばらく経ったが、少年はまだ墓参りを続けていた。律がいたからという理由も大きかったが、それ以上に虐待されて死んだ女の子がここに埋まっているのではないかと思えたからだった。少年は殺された女の子にひどく同情していた。父親に不遇に扱われ、周りの人にもそれを見て見ぬ振りをされる自分を、殺された女の子に重ね合わせて見ている部分があまりにも大きかったからだ。
 そういった立場に置かれる原因の一端は自身にもあることを、少年は自覚してはいた。自分の性格を素直で従順だと言えば聞こえは良かったが、そういった性質は卑屈で自己愛が強いことの裏返しであるのだから、父親にしても誰にしても、厳しく当たられて当然だった。だが少年は自己憐憫の情を捨てられなかった。
 恥ずかしいような、後ろめたいような気持ちを必死に取り繕いながら、少年は今日も墓にもみじを供えた。もみじの山はまるでたき火が燃えているかのような紅さなのにもかかわらず、どこか寒々しさを感じさせた。身に堪える肌寒さに、少年は秋がもう終わってしまうのだと気付かされた。吐く息の白さに驚きながら、少年は座ってこちらを見ている律に向かって、おもむろに話し始めた。
「僕お父さんが苦手なんだ。家族だから嫌いとか、そんな風には言い切れないんだけど、もしもいなくなってくれたら多分ほっとしてしまう」
 墓の前で律と会って話をすることが、すっかり少年の習慣になっていた。彼はそういう性格なのか、冷たかったり、よそよそしい態度を取ったりすることもあった。だが友人には言えないような話でも、不思議と彼にはすんなり話すことができた。誰かに本音を言いたかったのかもしれない。少年は父にも友人にも、建て前で会話することに疲れていたのだ。
「誰だってそうだよ。他の人と関わりあうのは気後れするけれど、誰かといたい。そう思うものさ。それは君にも、君のお父さんにも言えることだ」
 だから君は嘘を吐くし、君のお父さんは暴力を振るうんだよ、律はそう言った。
「なんでそうなるの」
「だって君は例え父親に殴り殺されるとしても、実際家を出てはいないだろう。家出をしたいと思ったことはたくさんあると思う。想像だけだったら君はもう他のねぐらを見つけて笑っているか、死んでいるだろう」
 律は横目で少年を見ながら、苦笑いをした。皮肉な言い草に、少年はため息をつきたくなった。少年は言い訳がましいと思いながらも言った。
「どうしようもないから出て行くか死ぬかしたいと思ってはいるんだけど、僕は得体の知れないところで死にたくはないんだ。だって汚いだろ。寝られないようなところでしばらく誰にも見つけられないまま、転がっているのは耐え難いんだ」
「寝られないところ? 毎日寝ている布団や、服を脱いで入る浴槽なんかでも駄目だって言うのかい」
「そんなところで死んだら、僕の死体を見つけたお母さんがまた勝手なこと想像し始めるよ。学校で友達にいじめられているとかね。僕は死んだことを周りの人たちに悟られたくないんだよ」
「でもどう足掻いても、死んだら死体は残ってしまうんだ。猫は死期を悟ると家人からは見えないところに行って死ぬって言う。だけど人間が死んで空気のようになることは難しい」
「死んだ後親や友達に僕の死体を見られて泣かれるなんて、想像しただけでも嫌になってくる。飛び降りて、風の中に僕の身体が溶けていけばいいのに」
「そんな死に方ありえないさ。だって今こうやって生きているということは、ひどい死に方をするってことと同じことだ」
 律は心底嫌そうな顔をした。そして彼はこう続けた。
「僕の祖父の話なんだけどさ、戦時中祖父は奇跡的に生き残ったんだ。爆弾が雨のように降り注ぐ中で周りの人がみんな死んでいった。だが祖父だけは無事だった。まるで爆弾が自分だけを避けているかのようだった、あれは運命だった、そう言って祖父は僕によく自慢していた。逆にこういう話もある。あるとき僕は家族とデパートに出掛けていたんだけど、そのデパートで警報が鳴った。火事が発生したんだ。火はみるみるうちに広がって、死を覚悟する程の大火事になった。そして周りの人たちが動揺して半狂乱になっている中、突然知らない男が『ありがとう!』って叫び始めたんだ。僕はびっくりしたよ。その人は周りの人から罵られるのにも構わず、『神は存在した』とか『私は選ばれた』とか、何かに訴えかけるかのようにずっと叫んでいたんだ。でもどうにか収拾がついて人々が普段通りの平静さを取り戻したとき、僕はもう一度その男を見たんだけど、この世の終わりのような顔をしていたよ」
 そういった意味では運命的に死に選ばれるって事態もありえるのではないだろうか、律はそう言った。
「だって君のお父さんが殴るのだって些細なことだ。でも当たり所さえ悪ければ、君は死ぬ。確率は極めて少なかろうと、その可能性があることは事実だ。そして今、君は死んでいなかろうとその可能性だけで十分だと思っている」
「そうだね。それに君の言う人が訴えていたように、神様がいるとすれば僕だってもう救われていてもいい頃だと思う。本当に存在していれば、僕は何だって我慢できるよ。でも、実際はそうじゃない。だってそうだとすればあの人が今ああして生きている訳がないし、子供が炎天下のアイスクリームのように溶けてなくなっていくのをみんなが黙って見ているはずがないんだ」
 少年のささやかな告白に、律は非難するような口調で答えた。
「血だ。血が邪魔するんだろう」
「血って……どういうこと?」
「血縁だよ。誰も生まれる場所や親を選べない。血は運命的なものだからだ」
 その時点では、少年は律の言葉のすべてを理解できたわけではなかった。自分の中に流れている血を感じ取るには、少年はまだ幼すぎたのだ。

NOCTURNE(後編)に続く





後記に代えて


 今回の作品の最終目標は、シンプルにすることでした。どこまで情報を削れるのか、というチャレンジでもあります。チャレンジの成否はこれから検証しなければ分かりませんが。
 まずは、これを読んで下さっている皆様に感謝。




 NOCTURNEというタイトルが適切か、自信がないのですが、夜にショパンのノクターンを聴きながら書きました。
 2番みたいなロマンティックなイメージはあまり無いですね。残念ながら、仕様なので改善できません(笑)
 後編は13番のイメージで書いていきます。読んでいただけると嬉しいです。


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